ボダ被害に遭わない、逃げ切るためのブログ

境界性人格障害者から被害を受けている方のためのブログです。

回避する思考、可能性の徹底排除。

最初に、このブログは境界性人格障害、最近では境界性パーソナリティー障害、英語ではBorderline Personality Disorderと呼ばれることから略称としてBPD、転じて日本語でボーダーライン、或いは略してボダと呼ばれる病気の被害に遭われた、または遭われている方に向けて書いています。

境界性人格障害の人や、回復を目指している境界性人格障害の人、及びその回復を支える人にはなんら有用な情報はありません。むしろ有害である可能性もあります。また、私はあなたの事を知りませんし、知らない人に対して個別に記事を書いたりはしません。つまり、ここにはあなたのことは何も書かれていません。どうぞ、読まずに他のサイトへ移動してください。


さて、今回もいただいたコメントから本題を立ち上げます。

被害に遭われた方に寄り添っている方からのご質問です。簡単に纏めると「被害者(だった人)が思うことを普通に伝えてくれれば、こちらも普通に対応するのに、なぜか自分のことを隠して無理をしようとする。無理をしなくてよい、ということを伝えると、被害者にとってそれは責められていると感じるようだ」というもので、「もちろん責めてるつもりもないので、なぜ責められていると考えてしまうのかがわからない」というものでした。

私が被害を経験したのは大昔で、今はいろいろなことに整理もついていますが、このご質問は昔の自分を思い出して懐かしくなりました。私もかつて、そのように言われたことがあります。

端的に言えば、その「責められている感情」は、ボダとのやりとりの中で生まれ、染み付いていくものです。
他の記事もご参照ください。度々書いていると思いますが、被害は「何で機嫌を損ねるのか判断がつきにくく、地雷原を歩くような対応を求められる」「望む回答を答えられなければ暴走されてしまう」「度々罪悪感を植えつけられる」という特徴があります。
あまりに長くその状況に置かれ続けると、精神的な負荷の中から知恵を凝らして「回避するための思考」をします。その思考が固まってくると、ボダの被害を回避することこそが至上命題になり、最終的には共依存の状況になっていきます。つまりこれが「被害者が必死にボダの問題を解決しようとする状況」です。

この状態は、常に「穏便に済ませること」が大切です。失敗すると、心が折れるまで責められます。ボダは不安定ですから、万全の策はありません。学ぶ内容は回避のための定形的な対応ではなく、「相手を不機嫌にする可能性の、可能な限りの排除」です。微に入り細に入り、可能性を考え、工夫し、察していこうとします。
具体的には、積極的な提案は避けます。仮にアクションを起こす場合は、発言や行動は慎重さが必要です。実行したことにより、或いは実行しなかったことにより、今後何が起こるかを予想して、ボダの被害の可能性を薄めていきます。

くどいですが、例えてみましょう。
少し旅費もかかる程度、遠出で買い物にでかけるとします。
「そこにしか売られていないもの」を被害者は買いたいと考えたとします。それは「あなたが欲しいものが置かれているエリアからは少し離れている」としましょう。
被害者は、あなたに欲しいものがあることを告げず、買わずに帰るかもしれません。どうしても欲しいなら、後日自分だけで再度来訪するでしょう。可能な限り、あなたに知られずに。知られる可能性があるなら諦めて買わずに済ませます。

後日、何かの理由でそれを知ったあなたは驚きます。普通に買いたいものがあるなら言ってくれれば、あなたは普通に一緒に店に行くでしょう。その方が、遠出で疲れるのも一度で済むし、なにより合理的です。言ってくれればいいのに、とあなたは被害者に伝えます。

でも、被害者には、被害者の希望を伝えることで相手が不機嫌になることが怖いのです。自分の発言で、相手が余分な行程に不満を持ったら。万が一気に入らないものが行った先にあったら。もしも道中、何か問題があったら。運良くその時は何事もなかったとしても、後日別件で不機嫌になった時に思い出したように「あの時、あんな店に行きたくなかった」と言われるかもしれません。被害者がボダに無理強いをしたと責められる可能性もあります。場合によっては周り酷く捏造した話を吹聴され、手に入れたものを破棄せざるを得ないほどの騒動になるかもしれません。色々考えた結果、「言わずにおく」ことが最善になってしまいます。

しかし後日、我慢していたことを知ったあなたに「言ってくれたらよかったのに」と言われます。被害者もまた、そこには合理的な誰もが同意できる理由があり、自分もまたその通りだとも頭では理解しています。
でも、被害者にとっては、できる限りあなたの機嫌を損ねないようにした結果なのです。そして言わなかったことを責められていると考え、「実行しなかったから回避できなかった」と捉え、これから始まるかもしれない「あなたからの架空の報復行為」に怯えるのです。


実のところ、かつては「言えばいいのに」というのを、私もパートナーに何度も言われ、私自身もその通りだと何度も思いました。だけど、それを踏まえてなお「穏やかな今の状態」を壊すことが多くて、言わずに我慢したりしてしまうのです。

しまいには、自分を信用してないのか、と怒られたりもしました。
そんなことはない、パートナーなので世の中の誰よりも信頼してはいるのですが、それよりも「穏やかな雰囲気を壊してしまった時の恐怖」が上回るのです。回避できなければ、相手の気が済むまで、なりふり構わず、日常生活に支障を来たすとしても、謝り、罵られ、責められ、否定され、断罪されることに耐えないといけません。そんなことは、避けられるなら避けたい。もちろん、パートナーには、そんなことで一度も不機嫌になられたりしたことはありません。頭で解っていても、その可能性は余りに怖いのです。
というわけですから、隣に立つあなたに不信感があるわけではないのは、理解をしてくれるとありがたいと思います。(ただ「言ってくれればいいのに」ということを、被害者はやっぱり言われるべきだと思います。あなたが不満を我慢をする必要も、またありません。)


そして、これ以降は被害者の方に。
「回避する思考」はなかなか改まるものではありませんが、こればかりは被害者自身が自分に向き合って治していかないといけません。ボダから被害を受けていてもなかなか離れられなかった時のように、周りが無理強いをできない「あなたが決断をしなくてはいけない部分」のひとつです。

どれほど近しい間柄でも、相手の全てを察することはできません。伝えるために言葉にしないといけないものは存在します。と同時に、言葉で伝えて意見が合わずとも、問題はない。むしろその「違い」こそが、他者と一緒に居る理由なのだと、きちんと認識しなおさないといけません。被害を受けた後となってはとてもしんどいことでしょうが、こればかりは、あなたが最初の一歩を踏み出さないといけません。もしかしたら、ボダとの縁を切る時以上に、心の力が必要かもしれません。


参考になるのかはわかりませんが。

私は自身の回避する思考に気がついてから、そのことについてひたすら考えた結果として、他者に与信をするということは、すなわち自己に与信をすることである、という結論になりました。
他の記事の繰り返しですが、自分の物差しを信じる、そして自分の味方で在り続けるということです。
私が二度とボダ被害に遭わないために必要なのは、物差しを使うのをやめる(つまりは他人を信用しない)ことではなく、他人のために自分が好まないことや嫌なことに自分を不本意に投じないこと、他人のために自分に我慢をさせて乗り切ろうとしないこと、ということです。どんなに相手と近しくても、だめなものはだめで、無理なものは無理。
結果、相手と衝突したとして、その上で何かしらの折り合いが必要になるのなら、それは必要なことで受け入れるべきなのかもしれませんが、話し合いも何もせず、勝手に自分の中で最初から折れる必要はないのです。
こう言葉にするとあまりに当たり前ですね。でも、人は往々にして自分を生贄に穏便に済ませがちなので、意外に大切だと思っています。

最後に。
それなりに時間はかかるでしょうが、踏み出せば、なんとかはなるもののようです。今はすっかり穏やかになりました。

そういえば、コメントで社会的な大損害を受けたと書かれてる方がいらっしゃいました。私も受けましたので、心中お察しします。そこまでされると、ほんとに周囲が全部信用ならない気分になりますし、精神的ダメージもでかいですが、今となって振り返ると意外に周囲の多数の人たちは冷静なもので、あなたがどう動くか自分で見るまでは判断を下さないものです。どうぞ、お気を確かになさって、あなたのために踏ん張ってください。あなたはともかく抜け出しました。これ以降は、あなたがあなたのために力を使うタイミングです。しんどいですが、ぐっと前を向きましょう。

次回はコメントへの返信を中心にする予定です。