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ボダ被害に遭わない、逃げ切るためのブログ

境界性人格障害者から被害を受けている方のためのブログです。

答えがないことも、答えのひとつ。という話。

境界性人格障害

いつものテンプレの前に、ひとつだけ回答をしておきます。
このブログの「ひとつ目の記事」について、訂正、謝罪、削除を要求するコメントをいくつかいただいていますが、全てお断りいたします。ご希望に沿えず申し訳ありません。(あと、回答が遅れてすみません。)

では、いつものテンプレです。

このブログは境界性人格障害、最近では境界性パーソナリティー障害、英語ではBorderline Personality Disorderと呼ばれることから略称としてBPD、転じて日本語でボーダーライン、或いは略してボダと呼ばれる病気の被害に遭われた、または遭われている方に向けて書いています。

境界性人格障害の人や、自分を境界性人格障害ではないかと考えている人、そして回復を目指している境界性人格障害の人、及びその回復を支える人にはなんら有用な情報はありません。むしろ有害である可能性もあります。また、私はあなたの事を知りませんし、知らない人に対して個別に記事を書いたりはしません。つまり、ここにはあなたのことは何も書かれていません。どうぞ、読まずに他のサイトへ移動してください。


あけましておめでとうございます。

しばらく私生活の環境が変わり、ご無沙汰をしていました。その間にもたくさんのコメントや、お気遣いのお気持ちをいただきました。誠にありがとうございます。本年もペースは落ちたとしても、更新はするつもりでいます。どうぞ、よろしくお願いいたします。

冒頭でお答えした以外のコメント返信については、次の記事に設けたいと考えています。(しかし、あまり具体的な返答はできないとは思いますので、大きな期待はしないようにお願いします。)

さて、今回の記事では、「答えのない不安」について考えていきたいと思います。

「答え」とは何かしらの「問い」に対するものです。基本的にはそれは「正しさ」を求められます。「1+1」という問い対しては「2」が正しい答えなのですが、しかし皆さんがご存知の通り、こんな単純な「問い」は世の中にはどちらかというと少なく、正解であると断ずる事ができる「答え」はほとんどないものです。

この事について考えると、そもそも「正しい」の定義が曖昧である、または「正しい」と判断をするためのルールが曖昧である、ということにも気がつきます。普遍的な正しさなんてそうそうあるものではありません。「勝てば官軍」という言葉もその事を示す言葉のひとつでしょう。グラスに2杯の水を大きなピッチャーひとつに移したら、「1+1=1」ではありませんか。いえ、単なる屁理屈ですが、これはつまり「左辺と右辺の単位は同じである」というルールを無視した結果です。つまり、単純な答えすら、実はそこに「単純さを保証する定義されたルール」があるからこそ、なのかもしれません。


「死ぬってどういうことだと思う?」と、かつて私はよく問われました。この質問には色々なものが含まれています。それは「テレビを見て呑気に笑っている私がゆるせない」であったり、「自殺を仄めかして私の注意を向けたい」であり、「自分に対して注視を怠っている私を驚かせたい」であり、或いは単純に「私を嫌な気分にさせたい」「私の気持ちを自分への心配で満たしたい」ということであったりもしますが、根本的には「正しい答えがない、そして流されることもない問いかけは、延々と続く会話を生み出す」という事を知っていたのだろうと(今となっては)思います。

初期の頃、何も知らなかった私は気楽に応じていました。心配をして、元気づけようとして、しかしその答えが相手の(その時々で気まぐれな)意に沿わないものであれば不機嫌をぶつけられ、我慢をしていました。
段々と学習をすると、最善の答えを探しました。つまり地雷を踏まないようにする対応です。その質問の気まぐれな意図を読み取ろうとして、精神力みたいなものを費やしました。
突き抜けてしまった後は、素直になりました。「その答えを、私は持っていない」と答えるようになりました。結果、不機嫌を誘発しても問題ないのです。あるかないかわからない地雷を避けるのは大変ですが、あるとわかってる地雷ならいっそ踏み抜いてしまった方がよほど精神的には健全でいられると理解しました。

こんな長い前置きをしてから、ようやく本題にかかりたいと思います。世の中には「正しい答え」がない「問い」がたくさんあります。
しかしながら、境界性パーソナリティー障害の人は往々にして「答えがない」ことに不安を覚えます。例えば「好き」か「嫌い」の両極端に偏る思考の性質がありますが、境界性パーソナリティー障害の人は「嫌い」よりも「どちらともつかない」ことこそ嫌がります。「好意」「憎悪」よりも「無関心」が嫌なのも、どちらでもない状況に我慢ができないのが遠因にあるのかもしれません。

ここで、少し疑問を感じた方がいるかもしれません。確かに感情の揺れ幅の極端さはあるとしても、むしろ「抽象的な表現」「曖昧な表現」を多用しているような気がする。…と、思われる方も多分少なくはないでしょう。実際、「死ぬってどういうことだと思う?」はある種の仄めかしです。「死にたい」が直球であるのなら、これは婉曲な表現です。
この辺りになると(専門家は答えを持ち合わせているのかもしれませんが)、私には「ボダのは人の心に引っかかる表現に長けている」としかコメントのしようがありません。「白黒の思考」といいつつも、ボダが灰色を知らないわけではなく、相手には灰色を与えることはできるのです。でも、自分に対して灰色を投げられると不安になる。そして、不安は様々な憶測を生み出します。

だいぶ話が逸れましたので、本題に戻ります。

被害を受けている真っ最中、大多数の人はつい地雷を避けたくて無理矢理答えを出すか、或いはなんとか曖昧にしてぼかそうとしてしまいます。ですが、経験的に、どちらも良い方法ではありません。

無理矢理出した答えはいつか矛盾を生み出します。その矛盾は、大きな不安をボダに与えます。平たく言えば「嘘つき」「ごまかし」として扱われます。あなたを責める材料にしかなりません。(もっとも、経験で人は考え方が変わることもありますが、そういうのもひっくるめて責められます。思うに、答えをぼかすよりはまだマシだと思います。)

曖昧にしたり、回避したり、のらくらした場合はさらによくありません。なぜなら、ボダの中で自動的に解釈をされるからです。つまり、「死ぬってどういうことだと思う?」に対して「ちょっとそういうの考える気分じゃない」なんて答えた暁には、「自分の相手をするのが嫌になった」「自分が死にたいと言ったのに好きにしろと言われた」なんて解釈もされかねません。どちらかわからない不安が、そのような「決着」を生み出すのだと思います。
(ただし、相手にしたくないのなら、相手にしたくないときっぱり答えることも場面によっては必要です。私のこのシーンには合わないだけのことです。)
ですから、曖昧にするのではなく、しっかりと「答えはない」と伝えなくてはいけません。それでボダが機嫌を悪くするとしても、あなたにとって「答えがない」のなら、それは「答え」であり、尊重されるべきものです。


…もっとも、尊重されるべきなのですが、私自身も身を以て体験しているように、当然ながらボダは尊重してくれるわけはありません。しかし、あなたが一緒に居たいのなら避けて通れませんし、我慢強く「私はあなたの望むものを全て都合良くは与えられない」事を示さなくてはなりません。仮にそうでないにしても、あなたは自身を守るために自身の考えを隠すような事をしてはいけません。確実に言えることは、一時的な回避は確実にさらなる困難を招きます。凌いだらなんとかなる、というのは甘い考えですし、凌いでいるうちに状況が変わることもまたありません。


さて、最後になりますが、今回このような記事を書いたのは、冒頭に書いたように、少し環境が変わったに伴い、久しぶりにアンテナに引っかかるタイプの方と知り合いになったためです。もちろん、慎重に立ち回って無事に躱していますが、なんだか久しぶりにテンプレな行動を見てむしろ懐かしくなりました。
なぜ、ボダの人ってあんな風にわかりやすいんでしょうか。本当に疑問です。


どうぞ皆様においても、今年が「一歩進める」年になる事を願っています。そのために、皆さんの強い味方足り得るのは、一番最初に皆さん自身です。ご自身のために、ひと踏ん張りしましょう。私も頑張ります。

次回はコメント返信です。