ボダ被害に遭わない、逃げ切るためのブログ

境界性人格障害者から被害を受けている方のためのブログです。

「間」に働く想像力。

最初に、このブログは境界性人格障害、最近では境界性パーソナリティー障害、英語ではBorderline Personality Disorderと呼ばれることから略称としてBPD、転じて日本語でボーダーライン、或いは略してボダと呼ばれる病気の被害に遭われた、または遭われている方に向けて書いています。

境界性人格障害の人や、自分を境界性人格障害ではないかと考えている人、そして回復を目指している境界性人格障害の人、及びその回復を支える人にはなんら有用な情報はありません。むしろ有害である可能性もあります。また、私はあなたの事を知りませんし、知らない人に対して個別に記事を書いたりはしません。つまり、ここにはあなたのことは何も書かれていません。どうぞ、読まずに他のサイトへ移動してください。

 


今年は実におかしな気候、地震などが続いていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。災害に遭われた方々には、心よりお見舞いを申し上げます。
良くないことというのは何故か続くような気がしてしまいますが、人は少なからず「良くない事に気を囚われると良い事に気がつけなくなる」心理的な傾向があるものです。そんな気分になっている時こそ、たとえ少しの気分転換、たとえ僅かな休息、たとえちょっとした息抜きだとしても、ご自身を労わるための行為を意識的に行うことはとても大切です。どうぞ、ご自身を大切に。


そして、皆様から変わらずコメントをいただいています。短くても長くても、このブログのシステムの許す限り、ご自由にお書きください。
必ずの返信はお約束できませんが、ご批判も含めて全て読ませていただいています。時に力をいただいたり、時に考えるきっかけになったりと、私自身の糧となっているように思います。
ありがとうございます。


数多のコメントをいただくなかでも一番多いのは、皆様の遭われたできごとを整理するように書いてくださる内容です。丁寧に、全くの第三者である私にも伝わるように書いてくださっています。
「伝わるように」というのは考えている以上に難しいもので、どれだけの言葉を尽くしても、時には意図と違う伝わり方をするものです。ですが、伝えようとする気持ちを持って推敲をすることは、必ずご自身の心の整理につながるのだと私は感じています。そしてそのようにして書かれた文章は、全く読むことが苦ではありません。どうぞ、文章が長いのだとしても気にせず、ご自由にお書きください。


そして今回の記事は、この「伝えること」から話を広げたいと思います。
声や文字で人が何かしら発信をする時、頭の中の思考を全て表現できるとは限りません。特に整理をするということを意識しないと、受け取り側に戸惑いを与えることにもなります。
アイスクリーム食べたいです。


突然、脈絡もなく書いてみました。この脈絡のなさに、どのような感想を持ったでしょうか。書き間違えと思ったり、もしかしたらなぜこのような一文が挟まれたのか、その理由を考えたりしたかもしれませんね。もちろん、これ程までにポンと文脈を無視して飛んでいるのは流石に「わかりやすく意味のわからない一文」です。ですが、世の中にはもっと普通に「わかりにくい途切れた文脈」の一文が溢れています。


例えば、このブログの一番最初の記事を読んででしょうか、たまに「お前が死ね」とだけのコメントが書き込まれることがあります。一度ならず、そしてたったひとりが繰り返している様子でもなく、書き込まれます。
このコメントを見かける度に、私はこのコメントを書き込むに至るまでの思考について様々考えます。(なお、念のために、特にへこんだりはしませんし、嫌な気持ちや、非難する気持ちにもなりません。)
これが、仮に「死ね」だけであれば、私は「ああ、憎悪ないし嫌悪を持たれたのだな」と考えるだけで終わります。顔も知らない誰かの憎悪や嫌悪は痛くも痒くもないので、それでおしまいです。
ですが、この「死ね」という単語に「お前が」という言葉がつくことにより、気になり始めるわけです。なぜなら、「お前が」とつくことにより、単なるシンプルな憎悪から、この言葉を書き込んだ方の思考の、いわば「氷山の一角」のような存在になるからです。


私がこのように考えるのは至極単純な理由で、私は一度たりとも誰かに対して「死ね」とは書いていないのです。
「お前が死ね」という言葉について考えてみると、概ね「死ね」と罵倒された仕返しに「お前が死ね」と返す、と考える方が自然です。つまり、私の記事を読んで、あたかも私から「死ね」と言われたかのような受け取り方をした。そしてその後様々思考を経た上で「お前『が』死ね」と書きこんだことが予想されます。もちろん、その思考の過程を伺い知ることはできません。


話をさらに進めましょう。先ほど私が書いた「アイスクリーム食べたいです。」に、もうひとつ言葉をつけたしましょう。そう、例えば「アイスクリーム食べたいです。今から死にます。」というふたつの文にします。
このふたつの文の間には、もちろん大きな隔たりがあります。そして、ここがこの記事にとって大きなポイントなのですが、この隔たりのあるふたつの文の「間」を、ひとは無意識にも埋めようとしてしまいます。他人から与えられた言葉の繋がりが理解できない時、人は理解をするために思考を巡らせるのです。例えば、「食べたいけど食べられる見込みも立たないので死にたくなった」「食べたいのにあなたが気を利かせて買い置きを用意しておかないから腹いせに死ぬと言い始めた」「食べたいけど健康問題で禁止されている、大好物なのに食べることができないので死にたい」…こじつけただけで複数の「間の埋め方」が思いつきます。もちろん、実はふたつの文は無関係かもしれませんし、もっと複雑な思考が間に存在するかもしれません。


もっと話を進めます。
仮にこの「間」を「理路の隙間」と名付けるとしましょう。そして「理路の隙間」は誤解と混乱をもたらします。そして、私の経験だけが根拠ですが、ボダの気配がある人は、無意識にこの「理路の隙間」を作ります。
場合によっては、この隙間を上手く埋めてくれることを相手に期待したりもします。(試し行為のひとつのようにです。)ですが、それが意図的ではなく無意識だと私が考える理由は、とどのつまり「自分と他人の線引きが難しい」という特質から来るものだと判断しているからです。自分の認識していることは当然相手にも認識されているだろうと考え、自分の思っていることは相手も当然思っているだろうと考える…と書くと若干悪意のある書き方ですね、そこにあるのは傲慢さではなく、「線引きができないから、他人が自分とは違う考えや認識を持っていることに気がつけない」ということです。


でも、実際にはボダの人がどう考えていたとしても、完全に一致はしません。そして、理路の隙間の捉え方が異なることが露呈した時に、ボダは失望と怒り、或いは恐怖や嫌悪を覚えます。そして、それを相手にぶつけます。結果、相手は驚き、混乱してしまう。


さらに話を進めるだけ進めます。
これを逆の立場から見ると、ボダの気質を持つ人は決して「鈍い」タイプではありません。むしろ「理路の隙間」を頻繁に作り出すほどの思考の早さがあります。ですから、もしも相手の言葉に「理路の隙間」があり、まだ相手がボダにとって評価が落ちきっていないのなら、むしろ「いろんな事を察してくれる」と感じるほどに、平たく言うなら至れり尽くせりな気遣いをしてもらえます。つまり、知り合ったばかりの初期の頃に「すごく気があう」要因のひとつになるわけです。(そして評価が落ちてしまうと、思いもよらない悪意を拾い上げられることになっていくわけです。)

 


さて、いつもは文章に(ずるずるとしながらも)起承転結をつけようと心がけているのですが、残念ながらこの記事はそうはなれそうもありません。
そこで、今回はいただいたご批判の文章にお返しして、締めとしたいと思います。


端的に纏めると、読みたくもない私の記事を「不慮の事故」的に見てしまって厄落としのために書き込みをしてくださった方がいらっしゃいます。記事冒頭のエクスキューズで引き返せない方も少なからずいらっしゃるでしょうし、一応ご不快にさせて申し訳ないとも思います。(多分、二度とはお越しにはならないでしょうが。)
しかし、素直に書いてしまえば、端的に纏めた部分以外は実に超展開で「理路の隙間」がありすぎて理解ができませんでした。(あと、若干難しい言葉を無理して突っ込んだために意味がわからなくなっていた部分もあります。)
結果、コメントを幾度となく繰り返し読み、「伝える気持ち」の大切さを新たに、今後も記事を書いていきたいと感じました。
もう流石に三度目はないと思いますが、もし三度目のコメントを頂戴できるのであれば、理路の隙間を意識していただければ幸いです。勝手を申しますが、よろしくお願いいたします。

 


まだ夏が終わる空気はありませんが、それでも秋が近づいてきています。
これから季節の変わり目です。
皆様、体調にはくれぐれもお気遣い下さい。


次回はできればあまり間を空けず、コメント返信をしたいと思います。