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ボダ被害に遭わない、逃げ切るためのブログ

境界性人格障害者から被害を受けている方のためのブログです。

過剰な罪悪感について

境界性人格障害
最初に、このブログは境界性人格障害、最近では境界性パーソナリティー障害、英語ではBorderline Personality Disorderと呼ばれることから略称としてBPD、転じて日本語でボーダーライン、或いは略してボダと呼ばれる病気の被害に遭われた、または遭われている方に向けて書いています。

境界性人格障害の人や、自分を境界性人格障害ではないかと考えている人、そして回復を目指している境界性人格障害の人、及びその回復を支える人にはなんら有用な情報はありません。むしろ有害である可能性もあります。また、私はあなたの事を知りませんし、知らない人に対して個別に記事を書いたりはしません。つまり、ここにはあなたのことは何も書かれていません。どうぞ、読まずに他のサイトへ移動してください。

今年最初の更新になります。
文章がどれも練り上がらなくてつい間を空けてしまいました。
いつも通り、前振りから始めましょう。

私は「罪悪感」というものは、人が社会で生活をしていくためには必要なものであると考えています。人は様々な理由で自分の行動を決定していきますが、罪悪感はその要素のひとつです。「このような事をしてもよいのか、或いはしてはいけないのか」と判断をする時に判断の材料のひとつになる、ということです。

ですが、罪悪感は必ずしも最良の選択ばかりを導くとは限りません。過剰な罪悪感があり、そこになんら贖罪できる要素が見当たらなければ、人は時として誤った判断を下します。
いつも通り例を挙げてみましょう。例えば「会社を休む、仕事を休むことは、周りに多大な迷惑や負担をかける行為であり、社会人として責任を果たせない行為である。」と考えているとしましょう。そして、ある日体調を崩してしまったとします。本来はきちんと休養を取って体調を戻すことが肝要です。しかし、休むことを罪悪に感じてしまっていると、身体を壊すまで、もしかしたら命に別条があるまで働き続けてしまうかもしれません。結果、より不調が長引いたりなどして、本来回避しようとしていた問題が些細に思えてしまうような大問題を引き起こす可能性がでてきます。

さて、そろそろ本題です。

罪悪感というものはとても大切ですが、それを過剰に抱えると人は判断に歪みが出てしまいます。そして、時として「人を縛りつける」ことにもなってしまいます。
そしてこの罪悪感、ボダとの関係においては欠かすことのできない感情です。
例えば、親にどれほど酷いことをされても耐える子ども。子どもの頃は親に依存しなければ生命活動に関わる問題になりますが、大人に成長して自身の面倒を見られる状況になっても、親から逃れなれない人は少なくない。これは親をどこか「親である」と信頼しているからであり、それを無下にすることに罪悪感を感じるという感情が含まれるでしょう。いえ、信頼は既に破綻していても、育ててもらったという恩義に対してそれを裏切る行為に罪悪感があるかもしれません。いずれも、人として正しい感情だと私は思います。ですが、ひとつだけ、どうぞ考えて欲しい。あなたは親のために生きているわけではない。あなたはあなたの人生の面倒を、あなた自身が見なくてはいけません。今はその基軸を親に置いてしまっていないでしょうか。
例えば、パートナーにどれほど酷いことをされても耐えてしまう人。かつての良好な関係に戻れる期待もあるでしょう。もしかしたら過去にパートナーに迷惑をかけたかもしれない。それは贖罪すべきレベルのものかもしれない。あなたがパートナーと離れるということは見捨てるということである、など、様々な罪悪感を抱えて葛藤しているかもしれない。パートナーと親子の関係の違いは、「関係を解消できる」ということです。ですが、あなたが耐え兼ねて別れ話を思い切ってしてみても何度も暴れられ、それもまた罪悪感のネタとして積み上がってしまう。そして自分の人生はもう終わりだと、被害に遭っていることを自覚しながらも抵抗をやめ、そこに留まることを選択してしまう。そういう方は少なくないのです。ですから、ご自身がそうだと思うなら、どうぞ考えてみてください。今は既にあなたは最悪の状況だ。あなたは悪者で、ボダを裏切り傷つける酷い人だ。…あなたがここからさらに自分のために動いたところで、その評価は何も変わりません。ですが、あなたの人生は取り戻せるし、取り戻さなくてはいけない。あなたの贖罪は、あなたの人生全てを放り投げることではない。どうぞ、頭を自身のために動かしてください。隣でボダが不機嫌でも、あなたはあなたのために考えてください。もしあなたが本当に持つべき罪悪感があったとして、それを解消する方法を現状、とれているのか。

私は過去に被害を受けていました、その時の気持ちは今でも思い出せます。振り回されて、頭がとにかく疲れていて、気分は投げやりで、それでいて嫌だとも感じていて、怯えていて、死にたいのは自分の方だと思ったり、だからといって相手を蔑ろにしたいわけではなく、できればなんとかしてあげたい、でも自分にはそれは無理だという予感もしている。
それの繰り返しです。
どうぞ、そこで全てを放棄せずに、一歩を自分のために踏み出して下さい。自身を守ることをあなたは優先してよい。そのために逃げるという選択肢は全く正当なものだ。相手が自暴をしていることに、自身の人生を賭ける必要はない。そして、この状況をなんとかする力は自分にはない。認めて、一歩を踏み出してください。

あなたの人生が、あなたのためのものである、そうあなたが考えられるようになるのを、私は願います。

さて、最後に軽いコメント返信です。

私自身への質問がありました。「今は人を信じることができるか」「幸せか」というご質問です。ご心配いただいたり、労らいのお言葉を頂戴することはよくありますが、ストレートに聞かれたのは初めてのように思います。
ひとつめの質問。素直に答えるなら、昔よりは警戒心が高いと思います。逃げだせた多くの方が感じるのと同様に、「ちょっと危うい感じ」は以前よりずっと感じ取れるようになりました。それが良いことだとは思いませんが、そういう人には自分の意思を強く主張するようにしているので、二度とは捉われないでしょう。
そして、そうではないと思える方々とは良好に関係を築いています。幸いとパートナーにも恵まれて支えられています。
ふたつめの質問。周りの理解を得られないと感じることは、私も体験してきました。時として「あなたに酷い目を合わせた相手」に対して憎しみを感じる人もいます。ですが、それはあなたに好意を持っているからこそであり、あなた側の意見にしか過ぎないものです。その怒りをあなたに見せられた時、あなたは自分もまた非難されていると感じるかもしれません。ですが、本質はただ「あなたを慮る」気持ちだと思うので、「悔しい、悲しい気持ちにさせて申し訳ない、でも触れないで欲しい」とだけ伝えておくのが良いと思います。蓋をするような形ですが、周りの攻撃性があなたを悲しくさせるなら、その本質を非難はせずに、そっと時間薬を使うしかないかな、と思います。そして時間も経過して、私は穏やかに過ごしています。幸せだと思います。
ぼんやりしていますが、これが回答です。
あなたが穏やかに過ごせる日を願っています。