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ボダ被害に遭わない、逃げ切るためのブログ

境界性人格障害者から被害を受けている方のためのブログです。

境界性人格障害の境界線と、それを判断する必要性について。

最初に、このブログは境界性人格障害、最近では境界性パーソナリティー障害、英語ではBorderline Personality Disorderと呼ばれることから略称としてBPD、転じて日本語でボーダーライン、或いは略してボダと呼ばれる病気の被害に遭われた、または遭われている方に向けて書いています。

境界性人格障害の人や、回復を目指している境界性人格障害の人、及びその回復を支える人にはなんら有用な情報はありません。むしろ有害である可能性もあります。また、私はあなたの事を知りませんし、知らない人に対して個別に記事を書いたりはしません。つまり、ここにはあなたのことは何も書かれていません。どうぞ、読まずに他のサイトへ移動してください。

いくつかのコメントで、簡潔に言えば「こんなこと言っていたら、ほとんどの人がボダに該当するんじゃないの?」というものをいただきました。一方、このコメントと裏表の関係になるのでしょうが、別のいくつかのコメントで、やはり簡潔に言えば「自分の交友している誰かを、簡単にボダだと考えて切り捨てるのは躊躇する」というものもいただきました。

これら二種類のコメントは、共通して「相手がボダかどうかを判断する境界線」について触れています。ですので、今回はこのことについて記事を書こうと思います。

では、本題です。

まず、世の中には、わがままな人がいます。自己中心的な人もいて、自分勝手な人もいます。人の話を聞かない人もいますし、希死念慮を抱えてる人も多くはないかもしれませんが、います。

メンタルヘルスのジャンルになると、人は分類すれば誰もが何かしら精神的な病に分類される、とも言われたりします。

もちろん、多面性は誰もが持つものです。いつも、そして誰にでも、同じ態度や考えを維持し続ける人はほとんどいないでしょう。

ですが、ボダはそのような普遍的で一般的な人の性質を指し示すものではありません。

ボダは他者と自分を区別することが苦手です。それは他者を認識できないのではなく、自己を自身の中に持たないからです。
代わりに、外部から得られるものが自己を形作ります。それは他者が自分に向ける評価や態度です。自身が自分にとって価値があると信じたいために、他者に自身を価値あるものとして扱うことを要求するのです。

ですから、単なるワガママや自分勝手ではありません。それをしなければ、自己を保つことができないのです。食事をしなければ、人は命を維持できません。そのようなレベルです。

例えてみましょう。
皆さんがご存知のジャイアン。ガキ大将です。ジャイアンはいいやつですが、例として扱うために少し限定してみます。「リサイタルを開くジャイアン」は自分勝手で傲慢です。スネ夫が「その日は都合が悪い」ことを匂わせれば不機嫌になり、脅して参加を強要します。みんなが嫌に感じていても察することなく、自慢の歌を披露します。
では、リサイタルを開くジャイアンはボダなのかというと、そうではありません。

ボダであるのなら、まずはスネ夫が「リサイタルを企画しないこと」を非難します。スネ夫が自分を理解していないと罵倒し、それが罪悪であるとわからせようとします。
また、スネ夫がリサイタルを企画したのであれば、スネ夫の都合や事情、生活を無視して自分の気分のままに拘束し、会話を続けたり一緒に過ごすことを求めます。結果、スネ夫の交友関係が希薄になっても、学業に支障がでても構いません。もしもスネ夫がそのことを気にして拘束を嫌がれば不機嫌になり、或いは自死を仄めかすなどしてねじ伏せます。
そして、リサイタルが開催されれば、自分がスネ夫の要求に応えて献身的に参加したかのように周囲に言い、場合によってはそれにも関わらずスネ夫からは無理や無茶を要求されたかのような捏造話もしますし、さらにはスネ夫本人を非難するでしょう。

これが、ボダです。
ただのワガママ、ただの自己中、ただの高飛車、その程度ではありません。完璧ではない、欠点がある程度の人は、到底ボダではないのです。


視点を変えましょう。

被害に遭った人は往々にして人付き合いに不安を覚えるようになります。ボダ被害は、大抵の場合「すごく気が合い信頼できる(と思っていた)相手」からダメージを受けるので、被害後にそのダメージが残るのです。以前の記事で書いた言葉を使えば、自分の(他者をはかる)物差しが曖昧になるのです。

結果、人を信頼する行為に消極的になります。少しでもダメージを連想させる行為を誰かから受けると、途端に心が緊張します。安易に言えばトラウマが蘇ります。自分の心ををどこまで開いていいかがわからなくなります。そして人を疑えばキリがなく、疑心暗鬼に陥ります。

しかし、実は被害に遭った前後で、世界が大きく変わったわけではありません。裏表は誰にでもあり、誰もが何かしら自己中心的な思考を持っています。ただ、被害に遭った人は、今まで出会わなかったものを見てしまっただけのことです。

ですから、私の個人的なおすすめですが、他者が何者であるかを考え、或いは疑いを持つよりも、あなたがあなたのことを守れているかどうか、そのことこそあなたは注力するべきだと思います。

ボダには二度とは関わりたくないものですが、以前に書いたように、誰もがボダの被害を受けるわけではありません。
あなたはあなたが嫌だと思う要求を突きつけられた時に断ることができれば、被害をある程度回避できるのです。
嫌なことを嫌だと最初から言いきれるのなら、ボダはあなたをどうすることもできません。すると、あなたは相手がボダかどうかを気にする必要はなくなります。

人間不信的な疑心暗鬼は、とても心を苛むことでしょう。相手を大切にしたい気持ちはあるけど、あのような苦悩や破滅はもう嫌だ、それはもっともなことです。
ですから、どうか、一度視点を変えてみてください。あなたは、目の前の人がボダかどうかを疑うよりも、あなたがあなたを守ることの方が遥かに大切です。
あなたがあなたを守れるのであれば、あなたが交友を持ちたい人との関係にも自然に安定がもたらされます。
不安定な相手にはヘタに手が出せません。言い争いなどの喧嘩ができるのも、お互いが安定してこそです。


毎度、ダラダラと記事を書きましたので、軽く纏めておきます。
ひとつ、誰もがボダになれるほど、ボダという存在は軽薄なものではありません。ボダは悪意や欲望などの贅沢品としてではなく、生きていくために必死で被害者に被害を与えるのです。だからこそ、私は区別して記事を書いていますし、そこには歴然とした違いがあります。
そしていまひとつ、あなたは目の前の人がボダかどうかを疑うも、自身の気持ちをきちんと表明できるようになることこそ、気にしなくてはいけません。であれば、あなたは誰かを切り捨てるなどと考える必要はなくなります。

以上が、コメントからの私の考えです。


最後に、もう少しだけ、軽くコメント返信をしておきます。

大学受験は、人生の中で割と大きなイベントではありますが、大丈夫、決定的で致命的なものではありません。少なくとも、死んでる場合ではありませんよ。上手く行っても行かなくても、時間は流れます。その流れの中で、あなたは自分のより後悔しない、可能な限りよい選択肢を選びましょう。あなたが最後に笑顔になれることを祈ってます。

その他、過分にお礼や同意をいただいています。しかしながら、全て皆さん自身の決断であり、成果です。
ありがたくお言葉をいただき、コメントくださったことに感謝して、これから皆さんがよい人生を歩まれることをお祈りします。

とても矛盾しますが、私はボダは避けねばならないと思っていると同時に、気にしてはいけないものだとも思っています。
その存在を知り、そして再度被害に遭わないために問うべき(責めるべき、ではありません)相手は、他者ではなく自分自身です。
どうぞ、自分を守りましょう。